自分語りほど空虚なものはない
といいつつ、自分語りですけども。
今日は「消された一家」というノンフィクションの本を読み終わりました。
言うまでもなく、稀に見る残虐な事件。
しかし、事件が報道されていた時を知らないので本書で勉強することに。
誉田哲也さんの「ケモノの城」は好きな本の1つなのだが、描写がグロく、読んでいて吐き気、呼吸の乱れが起こるほどの臨場感。
こんな事件が本当にあったのか…と言葉を失ったが、本書を読むことでさらなる真実を突きつけられる。
ネットやニュースでは、緒方一家が互いを虐殺し合ったところに焦点があてられるが、本書では松永に金を無心されたのち、自殺した人(限りなく他殺に近い自殺と表現されている)や、PTSDで苦しんでいる人、金を巻き上げられた人たち、肉体関係を持たされた人たちなど被害者の多さに驚く。
また、公判中にも関わらず、「俺は悪くない」と言っていたことや、傍聴者を笑わせるなど反省の色が見えない松永の異常性が見られる。
彼も、幼い時があり、素直に笑顔になっていたこともあるのだろうか。
いつから嘘に嘘を重ね、人を騙し続けていくようになったのか、それについては言及されていない。松永の親戚が取材拒否されているためだろうと思うが、それはそうだな。
世間を揺るがす凶悪犯罪の犯人の親族というだけで普通の生活が送れなくなるだろう。
松永の反省が見られないままこの事件は終わるのか。
と、自分語りをしてしまったが、
本書は著者の自分語りが少なく、
語弊があるかもしれないが、読みやすい。
ノンフィクションで、この調査がこんなに苦労した〜(だらだらだら)や、以前の自分の調査をいきなり振り返りだして、こんな成果を上げたとか言われると読者としては萎えてしまう。
私たちが見たい事件の本質がブレてしまうためだ。
事件の概要、裁判での被害者の証言、加害者の証言、隠されていた真実を明らかにするのは、証言をするもの、記録をするもの、校正をするもの全ての人がそうとうのエネルギーを使っただろう。
謎に包まれていたものを明らかにするためには、そのエネルギーが必要だ。
ノンフィクションにだらだらと自分語りはいらないと、持論を展開したのである。
ね、ほら空虚でしょ。